「理念学術体系」 序説

  • 「理念哲学」の最大の課題は、ギリシャのイデア哲学を源とする存在論哲学と、ドイツ観念論哲学を源とする認識論哲学との統合であろう。
  • 「イデア」は、カント哲学においては、ほぼ「物自体」にあたる。カントは、認識とは、感性的直感と悟性的思惟によって成立するので、感性的直感のない「物自体」の思惟を空虚であるとして、認識されないものとされたのである。
  • しかし、そもそもプラトンは、現象を「イデア」の影として考えられたわけであるから、現象を通して、その背後にある「イデア」(理念)を思惟することはできる。例えば、スウェーデンボルグのように超現象的な霊存在を認識することは、一般的に理性の能力の範囲を超えているとしても、現象として認識しうる自然や世界史や人間や大宇宙等の根底に存在する「理念」については、認識できるはずである。
  • このように、プラトンのイデア論を正とし、カントの物自体論を反として、合の立場に立つのが、ヘーゲル哲学の理念哲学である。この理念哲学を土台にして、新時代に向けて、新しい理念哲学を構築していきたい。
  • 理念の奥に、すべての個性的理念を包む、絶対無の如き大理念を想定している。それは、あの大宇宙の意識のように、自らは無にして、あらゆる個性的な星々を輝かせる大いなる場となる大理念である。こうした考え方も、西田哲学をも取り入れた新しい理念哲学の切り口であるといえよう。こうしたすべての個性を活かす寛大なる理念が、新時代のすべての学問領域に必要であると思う。
  • 「理念道徳学」は、かつて道徳形而上学を打ち立てられたカント哲学やフィヒテ哲学の延長上に理論構築してゆけるものであろう。
  • すなわち、「叡知界」(理念界)に属する各自の普遍の道徳律(理念の法)に従って自律する時に、善が生ずるという思想である。道徳思想にも様々なものがあるが、この思想が、「理念道徳学」に限りなく近いといえるであろう。
  • ただし、各自の内なる理念の法(普遍の道徳律)に段階の差と個性の差を認めてゆくことは、さらに必要であろうし、「外なる法と自律」の問題や、「精神の法則と自由の意志」の問題などについては、さらに探求の余地があるであろう。
  • 美の根源とは、天上の美の理念にあるのであり、地上に顕れたる美とは、その投影なのである。
  • 故に、地上の美を通して天上の美を想起し、想起したものを昇華して、天上の美、天上の芸術を地上に創造していくのが、理念芸術なのである。
  • 美にも段階の差があり、理念美を頂点とした秩序があるのであり、絶対的美というのは実在するのである。
  • 理念の美を認識するのは、人間の内なる理念であるが、これは、本能的感性とは区別した理性の一形態としての感性である。
  • 理念政治学とは、国家の意志決定において、理念に正しさの根拠を求める政治学である。
  • 故に、理念を真に認識できる哲人政治家によるリーダーシップが待望されるのである。
  • 理念法学とは、法律の中に、自然法の源である理念の法を取り入れてゆくことである。このことによって、法は、真なる正当性と普遍性を獲得できるのである。
  • 現代においては、正義とは、民主主義的原理にのみ置かれる傾向があるが、理念こそが、真なる正義の源なのである。
  • 理念政治学、理念法学の実践的変革者は、「理念政治家」や「理念志士」であるとすれば、これは、理念経済学に対する「理念経営者」に対比されるものであろう。共に新時代を築くべき理念的実践者であり、その意味で、かかる方々に対する塾のようなものを、かつての吉田松陰の塾や石田梅岩の塾のように、創ってゆかなくてはならないであろう。
  • ルソーは、社会契約論の中で、「市民宗教」の必要性を訴えられているが、ヘーゲルもまた、国家独特の民族宗教の必要性を訴えられている。そして、それらは、自由の原理と矛盾するものではなく、むしろ、自由の原理を実現し、確立するために必要なものであるとされているのである。
  • 国家宗教とは、宗教の問題というよりは、むしろ、「理念政治学」「理念法学」の問題である。理念という人為を超えた普遍の法を、政治と法の中に実現してゆくことによって、実質上、国家宗教を打ち立ててゆくことこそ、近代精神の究極にあったものであり、未来精神の鍵でもあろう。
  • 国家に理念が顕現することによって、国家は、その本来の崇高なる生命の息吹、使命の息吹を吹き返し、光輝く生命体となるのである。これを、「理念国家有機体説」という。

【理念的歴史観について】

  • ヘーゲルは、歴史には絶対者の法則が存在し、歴史とは、絶対者の本質、すなわち、「理念」が実現されてゆくプロセスであると考えられた。
  • これを経済学にあてはめて考えてみると、経済史(経済現象の連続)には、絶対者の法則が存在し、「理念」が実現されてゆくプロセスであるとする理念経済学が考えられる。これは、ヘーゲル哲学の経済学への応用であるともいえる。
  • 絶対者の「理念」とは、「かくあるべし」として当為的規範の形で実在し、それを、経済史の中で、特に絶対者の「理念」を把握し、体現した「理念経営者」によって、実現されてゆかなくてはならない。かくして、「理念経済学」と「理念経営学」とは、不即不離の関係で樹立されなくてはならないのである。
  • マルクスは、経済史の中に法則を見出す経済学を創出されたが、歴史の原動力を、絶対者の「理念」ではなく、物質の「経済関係」に置きかえた点で、大きく経済学の正当な発展を遅らせたのである。

【理念論的弁証法について】

さらに、歴史の発展の原動力となる弁証法についても、マルクスは、「唯物論的弁証法」を揚げられたが、これも、本来の「理念論的弁証法」に置きかえ直さなくてはならない。あくまでも、理念哲学をその根本とした経済学への応用哲学でなくてはならないのである。

【理念自由主義その他について】

他に、マルクスの「暴力革命」、「労働価値説」、「結果平等」、「計画経済」等についても、それぞれ「思想革命」(ペンによる革命)、「理念価値説」、「機会平等」、「理念自由主義」等に置き換えられなくてはならないであろう。

【プラグマティズムの位置づけについて】

さらには、理念中心主義に対しては、プラグマティズムによる補強の精神も大切であると思われる。

【祝福の経済思想について】

また、マルクスの「豊かなブルジョワジー」に対する「貧しきプロレタリアート」の闘争(嫉妬)という図式は、「無限供給(理念)の体現者」に対する敬い(祝福)という図式に変革されるべきであろう。

【アダム=スミス経済学とマルクス経済学の止揚について】

アダム=スミスの「神の見えざる手」という思想も、結局のところ、経済史、もしくは経済現象の背後にある絶対者の「理念」のことであり、ここにおいて、理念経済学は、アダム=スミス経済学とマルクス経済学を止揚統合することができるのである。

  • 理念経営とは、経営哲学に基づいた経営であり、その哲学は、理念哲学の実践哲学であるが故に、それに則った正しい経営となるのである。
  • 理念経営者の課題は、いかに理念価値の高い理念商品を創るかであり、また、従業員の内なる理念をいかに光輝かせながら、指導力を発揮するかである。
  • 「理念教育学」とは、各自の内なる理念を伸ばしてゆく教育であり、一人一人の固有にして無二なる個性的理念に着眼する所から、個性尊重の教育、天才教育へとつながってゆくものである。
  • ルソーの「自然教育」とは、大自然の内にある理念にかなった教育のことであるから、理念に着眼する限り、近代的教育原理の精神と両立し、さらに、その奥にあるものへの探究につながってゆく。これは、ルソーの「自然芸術」にも同じことがいえる。
  • 理念教育は、仏教的にいえば般若開発の教育であり、プラグマティズム的実学教育は、仏教的にいえば識教育となろう。後者は、例えば基本知識や語学やコンピューター教育等になろうが、これは、前者の下支えとしては大切にするべきである。
  • シュタイナーの「霊的教育」の中から、神秘主義的オカルト要素を抑え、客観的な理念を重視している教育が理念教育学であるが、その精神と効果に、同じ本質のものが期待されるであろう。シュナイター教育が充分に普遍性をもてなかった理由は、神秘主義的傾向が強く、客観的普遍性がなく、近代の合理主義精神と適合しなかったからであると思う。
  • 「理念教育学」とは、仏教の般若教育を根幹とするものであるから、実質的に、近代的要請に合致する形で、宗教教育を行えるものである。
  • 「理念教育学」は、自己固有の理念に対する自己信頼の精神、主体性の精神、自律の精神を大切にするので、福沢諭吉的な「独立自尊」の教育理念とも一致するであろう。また、エマソン的「学者」倫理と一致することもいうまでもない。

【「相対性理論」と「絶対性理論」について

ニュートンは、「絶対空間」「絶対時間」を想定して古典物理学を創られたが、アインシュタインの出現によって、あらゆる空間と時間は相対的なものにすぎず、基軸の変化に伴って変転してゆくとされた。

これは、物理学的縁起の思想、空の思想であって、いわば、絶対空間や絶対時間なる「自性」はなく、すべての空間と時間は、「依他起性」、すなわち、他のものとのかかわりによって、一時的な性質を有したにすぎない相対的概念とされるのである。

しかしながら、仏教に、空の奥に「仏性論」が存在するように、相対空間、相対時間の奥には、確かに「絶対空間」「絶対時間」が実在するのである。そもそも、数学や物理学は「理」を扱ったものであるから、その源は「理念界」にあるのであって、理念界を中心にして考案してゆかなくてはならないのである。

故に、今後、ニュートンの時空間を正とし、アインシュタインの時空間を反とした、新しい合の立場の「理念物理学」が出現してこなくてはならないのである。

アインシュタインの時空論は、現象界における限りにおいて真理であるが、理念界において偽である。一方、ニュートンの時空論は、理念界においては真理ではあるが、現象界においては偽である。すなわち、理念の時空論を根源として、現象の時空論をその投影として説明する理論こそが、「理念物理学」の立場なのである。

さらに、理念を「一者」として、それが、「多」なる時間空間に分かれて、すべての存在が生じているという世界観も、「理念物理学」のテーゼである。すなわち、一なる理念の時間空間の自己限定によって、各次元の時間空間が生じ、多様なる世界が生じている。

【アインシュタインの光と「理念物理学」の光について】

「理念物理学」においては、「理念」が一定であり、これを基軸にしてすべての時空を考えてゆくものであるが、この「理念」の現象界への投影が、アインシュタインのいう「光」である。それは、厳密な意味では正しい理論とはいえないが、アインシュタインが時間空間の基軸を「光」に置こうとした直感の奥にあるものは正しいといえる。それは、結局のところ、現象的な光の奥にある「理念の光」のことであり、「理念そのもの」のことなのである。

現象の光を基軸にした現象の時間と空間は、現象の座標軸(人間の観測者)によって変転してゆく。しかし、理念の光を基軸にした理念の時間と空間は、理念の座標軸(絶対者的観測者)のもとに不変不動なのである。

【各次元の「光」「時間」「空間」について】

三次元世界は、三次元的準理念としての「三次元的光」によって時間と空間が創られ、四次元以降の世界は、それぞれの各次元的準理念としての「各次元的光」によって、それぞれの時間と空間が創られている。
そして、中心となる理念(光)の性質の差が、各次元の時間空間の差となっている。

理念(光)の運動が時間の本質であって、その場が空間の本質である。
三次元の光の性質が物質であるとすれば、四次元の光の性質は本能的意識であり、五次元の光の性質は精神的意識であり、次元が上がる程に、精神が純化されてゆく。

【絶対無と統一場理論について】

この「理念」を「絶対無」として規定すれば、西田哲学でいう「一即多、多即一」の哲理のみならず、空間論的には、「場」の哲理が探求されてくるといえるであろう。物理学において、アインシュタインが「統一場理論」の完成に苦心されているといえるが、これは、西田哲学でいえば、絶対無の「場」にあたるといえよう。

結局のところ、アインシュタイン理論における理念想定の消極性が、かかる絶対無の「場」へとたどりつけなかった原因であると思われる。「理念物理学」においては、かかる「統一場理論」を、理念の立場から新しく樹立しえるであろう。

  • ダーウィンの進化論は、マルクスの唯物論的経済学と同じであって、生物界の中に「発展の法則」を見い出されている点は評価できるが、「理念」が不在である点が誤りであるといえるのである。生物界も、人類の歴史と同じく、絶対者の「理念」、絶対者の「摂理」が支配しているのであり、かかるものによって、進化発展の歴史が育まれてゆくのである。
  • しかも、その歴史とは、「生存競争による自然淘汰」というようなものに本質があるのではなく、自然界に対する絶対者の計画にこそ本質があるのであり、これも、経済学と同様、各生物の理念的弁証法によって進化・発展してゆくとみることもできるのである。
  • 生物の遺伝子とは、生物の理念の影であって、理念が現実に投影されたものである。こうして、「イデア論」的生物学、「理念論」的生物学は、新しい「理念進化論」によって新生するのである。
  • 原子が集まって分子をつくり、そして、有機体をつくってゆくが、これは、それぞれ、まず「原子の理念」「分子の理念」「有機体の理念」があった後のことであり、かかる理念があるからこそ、理念の影としての物質は、すべて普遍的構造を示すのである。
  • 「理念」とは、素粒子から大宇宙にいたるまで、すべてのものの中にあり、それは、一なるものであると同時に、多なるものとして実在し、分化しているのである。
  • 物質の本質は「空」にある。故に、化学の世界においても相対性理論があり、同時に、「理念」に関しては絶対性理論がある。
  • 数学の基本概念は、すべて先天的なもの、すなわち、「理念」である。例えば、数字の一つ一つにしても、三角形にしても、すべて理念である。
  • すなわち、現象的な数や形の背景には、まず理念的な数や形が実在し、その影として、地上に数や形があらわれているのである。
  • 故に、数学の認識は、人間の内なる先天的な理性に基づくといえるのであり、数学の存在は、人間精神の先天的理性と物質の背後にある理性的根拠の存在を導くものなのである(数学と認識論)。
  • かつてピュタゴラスは、「万物の根源には『数』がある」といわれたが、これは、「万物の根源には『理念』(法則)がある」ということと本質的には同一である。何故なら、数の原理によって法則が規定されているからであり、数の変化が量の変化、そして、質の変化を規定しているからである。故に、数とは、法則の源であるといえるのである。

    神は、世界を「数」の法則によって創られたのである。すなわち、「数学によって世界は創られた」「はじめに数ありき」ともいえるのである。
  • 理念医学の着眼するべきことは、人間の内には理念があり、この理念には、「健康」という属性があり、この理念を活性化させてゆけば、自然治癒能力を充分に発揮して、病は癒えるということである。
  • 理念を活性化させるためには、反省によって心を浄化し、心の内奥なる理念を光輝かせてゆくことである。また、その理念を、現象を超えて直視し、「健康そのもの」の姿を観ることによって病を癒やすことも、心の法則上可能なのである。
  • フロイト心理学は、人間の肉体は、性本能(リビドー)が人間の行動や文化を支配しているとされたが、これは、仏教でいえば煩悩、ショーペンハウアー哲学でいえば、盲目的意志にあたるものであり、人間と世界の真理の一面ではあるが、真理の大局からいうと誤っている。

    あくまでも、人間の行動や文化を支配しているものは、神の理念であり、神から分かれた一人一人の固有の理念なのである。そして、我々は、低次の煩悩から解脱し、盲目的意志を否定(ショーペンハウアーの表現)し、固有の理念に基づいて行動し、文化を樹立しなければならない存在なのである。

    この考え方は、ユング心理学の「集合的無意識」や、マズロー心理学の「自己実現」の中にも、その包芽はみられるといえるが、それはさらに、「理念心理学」として発展させられなければならないのである。すなわち、心の奥にある理とは「理念」であり、これは、集合的無意識であると同時に、真なる自己なのである。
  • 二十世紀思想の潮流となっているものは、ニーチェ、マルクス、フロイト、ダーウィン、それにつけ加えて、「プラグマティズム」「自由主義」であるというのが通説である。

    我々は、まず、理念哲学によって、理念を否定したニーチェ哲学をさらに否定することによって、絶対肯定の理念哲学を獲得し、同じく理念を否定したマルクス経済学を否定することによって、絶対肯定の理念経済学を獲得し、さらに、理念を否定したフロイト心理学をさらに否定することによって、絶対肯定の理念心理学を獲得し、理念を否定したダーウィン進化論を否定し、絶対肯定の理念進化論(理念生物学)を獲得し、また、理念を目的とせず、手段としたプラグマティズムに対して、主従を逆転させ、理念を目的とした、手段としてプラグマティズムを位置づけ、「理念の革命」を見事に成就し、近代を「正」、現代を「反」とした、否定の否定たる絶対肯定の「合」の文化、「合」の文明、「合」の理想郷を実現してゆかなくてはならないのである。

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