【公開】理念メッセージ
【哲学的コラム】
「古典的良書の本質について」
JDR総合研究所・代表
天川貴之
代表的古典となり、叡智の殿堂に据え置かれた本というものは、それらすべてが、決して同時代にベストセラーとして迎えられた訳ではない。すなわち、よく売れる本であることと、古典になる良書であることとは、全く別のことなのである。
同時代にベストセラーになっている本をよくよく観察してみると、人々のニーズにかない、時流にかなっているものであることが多い。それに比べて、売れにくい本というのは、人々のニーズに無頓着で時流に迎合していない所がある。
しかし、たとえ一時的にベストセラーになりえた本も、その名声の勢いをどの程度持続できるかとなると、大部分が刹那的な名声で終わってしまうことがほとんどである。あれほど売れに売れた本が、数年もたたないうちに本屋から姿を消してしまうのを見ると、無常の感をぬぐい去れないのである。当然のことながら、そうした本が古典となって残ることは皆無である。
それに比べると古典になって残っている本は、同時代において充分に認められないことが多い。それは、多くの場合、内容が世情を超えて崇高であり、時流をはるかに超越している傾向があるからである。
そうした本は、同時代においては少数の同じく崇高で時流を超えた見識をもつ読者によってのみ理解され、そうした方の推奨によって少しずつ広まってゆく。そして、その歩みは深く静かであるが、確実に時代の深部に影響を与え、これを動かしてゆくといえるのである。
このように、古典的良書が古典的良書である所以は、人々のニーズにかない、時流に適ったからではない。その中にどれだけの「真理」が述べられているかによるのである。
真理の書とは、人間の内なる理性に訴えかけるものである。すべての人間は理性を有しており、多かれ少なかれ顕現しているので、その書の「真理」性を遅かれ早かれ見抜くのである。(注1)
それも、時間空間を隔てるにつれて、その真理の書の偉大さがとてつもない偉大さであると客観視できてくるので、真なる古典的良書は、たとえ同時代に少数の理解者しか得られなくても、いずれ本来の立場である叡智の殿堂へと据え置かれるのである。
◎【課題】◎
◎【課題①】(哲学コラム1ー①)◎
※人類の歴史の中で、「古典」となって遺ってゆく書物と、やがて消えてゆく書物の違いはどこにあるのかを、当コラムを参考にしながら、ご自身の見解を考察して下さい。
◎【課題②】(哲学コラム1ー②)◎
※人類は、長い時間をかけて、どのように「古典」となる書物の価値を真に認識できるようになるのか、その過程を考察して下さい。
◎【注釈】◎
◎【注釈】◎
(注1)~我々人間が、真理、即ち「理念」(イデア)を認識する内なる精神の力(作用)のことを「理性」と呼び、近代においては、全ての人間が内なる理性を有するが故に平等とされ、この人間の内なる理性の光を如何に顕現せしめるかが、近代の「啓蒙」運動の核心であったと言えますが、しかしながら、この理性の顕現度合いは明らかに人によって違いがあり、この理性の顕現度合いの違いを如何に位置づけるべきかということが、新時代の大いなる課題であると言えるでしょう。
◎【ご意見・ご感想】◎
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